高度成長期頃から、日本における食の環境が変化していく中、
当社は創立時より一貫して、誰もやったことがないことに挑戦し、
日本人の食生活を支えてきました。
「中村産業と組めば、未来につながる新しい挑戦ができる」という
評価を受け続けてきた、60年の軌跡を振り返ります。
中村達彦が、東京都墨田区向島に中村産業株式会社を創立したのが1958年1月1日、設立は60年2月24日のことである。達彦の父・磯吉が営む、化学品卸会社・中村磯吉商店の事務所の1室を借りてのスタートだった。
薬剤師の資格を持つ達彦は、以前、食品関連の輸入販売を手掛ける兵庫県神戸市の商社に勤務し、食品添加物の検査業務に携わっていた。その会社が食品機械の輸入業務を開始したことにヒントを得て、これからは日本でも食品機械に関する需要が高まるのではないかと判断。出身地の墨田区向島に戻り、会社を興したのだ。
当時の日本は、高度経済成長が始まった頃。人々の生活も敗戦直後の苦境期を脱し、食を取り巻く環境にも変化が生じつつあった。57年頃から、白黒テレビや洗濯機とともに「三種の神器」と呼ばれるようになった電気冷蔵庫は、65年には普及率が約50%に達した。またその頃急成長を遂げていたのが、低価格とセルフサービスを特徴としたスーパーマーケットだった。56年時点では、全国で約100店にすぎなかったが、59年には約1,000店にまで伸長した。
スーパーマーケットでは、商品を大量に流通させるシステムを整えるために、例えば、それまではまるごと1本売っていた魚を切り身にして、パックで売るといった販売方法を展開。食品に関する一種の包装革命が起きようとしていた。
一方、冷蔵庫の普及によって、人々は簡単に火を通すだけで調理ができる、加工食品を保存しておくことができるようになった。
今後、市民の食品の購入スタイルが、一般小売店からスーパーマーケットを中心としたものへと変わり、また加工食品が普及していくとすれば、食品メーカーはそれに応えるために、食品加工機械や包装機などの設備を整えることが不可欠になってくる。達彦が食品機械に着目したのは、この時期まさに起ころうとしていた消費や食をめぐる環境の変化を、いち早くビジネスチャンスとして捉えたことによるものだった。
達彦は当初、最先端の食品機械を探しにアメリカを訪れたが、求める製品に巡り会うことができなかった。そこで次に渡欧したところ、ドイツの食品機械業界最大手のステファン社との間で、取引開始の合意を結ぶことに成功。62年のことだった。以降ミキサーやカッター、混合機、粉砕機、乳化機といった食品加工機械をステファン社から輸入し、日本企業への販売を手掛けるようになる。
食品加工機械に限らず、当時ヨーロッパのメーカーから製品を輸入していたのは大手総合商社が中心だったが、ステファン社では、取り扱い製品を食品加工機械に特化し、顧客に対して手厚いサービスを行うことができる専門商社を求めていた。これが、両社が成約に至ることができた一番の要因だった。まだ創立間もない当社が、最先端かつ最高品質の製品を製造しているステファン社と契約を結べたことは、専門商社としてのブランド力を高める上で、大いにプラスとなった。
当社では、ステファン社のミキサーの導入を、ハム会社はもちろん、かまぼこを製造している水産加工会社に対しても提案した。従来かまぼこの製造に用いられてきた
この提案が受け入れられたことにより、早くも、ハム業界と水産加工業界を2大取引先として得ることができた。そしてこれらの業界の成長とともに、当社も成長を遂げていくことになる。62年には千葉県松戸市上矢切に工場兼倉庫を設置。また64年には、東京都中央区日本橋室町に本社を移転した。
そして同年、ドイツのポリクリップ社とも取り引きを開始し、包装機や
さらに食品を包装するためには、包装資材が必要となるが、当社は日本国内の大手メーカーと連携してこれを開発。包装機の顧客に対して包装資材の販売も開始した。
ここまで見てきたことからも分るように、当社では創立期から、日本国内ではまだどの企業も取り扱ってない機械であったとしても、優れていると判断すれば果敢に取り入れてきた。また、かまぼこ製造を行っている水産加工会社に対してミキサーの活用を提案したように、海外の最先端の機械を、日本の食品業界の状況に合わせてどのように活用すれば効果的かを常に考え、顧客に発案してきた。こうした姿勢が顧客から「中村産業と組めば、未来につながる新しい挑戦ができる」と評価され、信頼関係が構築されていった。
また食品加工機械、包装機、包装資材をセットで販売することで、顧客に対して原料処理から包装に至るまでの提案を、トータルに行える体制を早い段階で整えた。
例えば顧客先において、包装の工程で何か問題が生じたとする。包装機しか扱っていない企業であれば、包装機の改善や交換を提案するしかない。しかし当社の場合は、加工の段階にまで遡って問題の原因を探り、「加工の方法をこう工夫すれば、包装の問題は解決できる」といったように、全体の工程を見渡した上で、顧客に解決策を提示することが可能になった。
このように当社は、海外の最先端の機械を顧客に納入したらそれで終わりではなく、アフターメンテナンスはもちろんのこと、製造工程で生じた問題を顧客と一緒に解決していくという姿勢を創立期から重視してきた。また1つの機械を長期間にわたり顧客に使っていただけるよう、交換用の部品を常に海外から補充し、ストックに注力してきた。こうしたことも、当社が顧客から厚い信頼を得ることにつながっている。
食品の購入スタイルを変えたスーパーマーケットは、60年代を通して成長を続け、68年には売上高で百貨店を上回るようになった。特に伸長著しかったのが総合スーパーで、これらの企業は大型化とともに多店舗化を進めていった。
総合スーパーの店舗網が広がる中で、食品会社に課されたのは、衛生面に配慮した安心・安全な食品を、日持ちのする形で全国の流通網に乗せて小売店に提供することだった。
当社はこうした状況に対応するために、70年にドイツのムルチバック社と契約を結び、深絞り真空包装機の輸入を開始した。真空包装技術を用いれば、細菌やカビなどの発生を防止し、小売店や消費者が求める食の安心・安全を実現できるからだ。同時に当社は、イギリスのサーン社から、スライスラインの各種機械を導入した。
これまでハムの販売は、ハム会社が小売店に納めた原木を、店頭でスライスして消費者に提供するのが一般的だった。しかしハム会社が真空包装機、及びスライスラインを導入してからは、あらかじめ工場でスライスと真空包装を行った商品を、小売店に納品するスタイルが主流になった。真空包装技術は、小売店の店頭の風景を一変させることになった。
一方で当社は、71年には千葉県松戸市松戸に、松戸支店としてセンタービルを建設。このビルは、サービス工場、トレーニングセンター、ショールーム、技術センター、開発室、パーツセンターなどの設備を備えたものだった。
このうち特記しておきたいのが、技術センターである。当時、食品加工機械や包装機の製造技術は、国産よりもドイツを中心としたヨーロッパのほうが一日の長があり、これらの機械を使いこなす技術についても、現地の職人は高い能力を有していた。そこで当社は、ドイツからハム製造のマイスターを講師として
なお当社は、73年には仙台営業所、77年には大阪支店を開設した。仙台は水産加工を中心とした食品加工業が盛んな地域であり、大口の取引先が複数社あったため、さらなる関係の強化を図るための進出だった。
大阪については、大手ハム会社の多くが関西に本社や工場を構えており、顧客からの問い合わせや要望に対してすぐに応じる体制を強化するため、この地に支店を構えることにしたのだ。
ちなみに当社は、取り引き当初から2000年にかけて各メーカーの極東代理店も務めていた。韓国と台湾にスタッフを派遣し、現地の食品加工会社に機械を納品していた。その後、当社の韓国と台湾における代理店の権利は、1990~2000年頃、現地代理店に譲渡したために消滅した。
70年代後半から80年代にかけては、食を取り巻く環境にまた新たな変化が現れた。その1つがファミリーレストランの興隆である。
ファミリーレストランは70年代前半に店舗が相次いで登場。そして70年代後半以降、一気に店舗数が拡大した。この業態の大きな特徴は、セントラルキッチンでほぼ完成した状態にまで調理を行った上で、真空パックしたものを各店舗に配送。各店舗の厨房で、加熱などを行い盛りつけをすれば、すぐに来店客に料理を提供できるという仕組みを採用していることである。
セントラルキッチンでは大量の調理・加工・包装作業が発生するため、食品加工機械や包装機、包装資材などが必要となる。そのためこの頃から、ファミリーレストランも大切な顧客になっていった。
一方、食品加工会社との取り引きにおいては、当社が納入している食品加工機械や包装機の利用用途が、ハムやソーセージ、かまぼこだけではなく、ハンバーグやミートボール、チョコレートやプロセスチーズ、そして各種レトルト食品、冷凍食品、チルド食品など、この時期に多様な食品へと広がりを見せていった。これは電子レンジの普及などもあり、加工食品が日本人の食生活に完全に欠かせないものになってきたことを意味していた。
さらに当社は、この頃から、現在も続く大手医薬品メーカーへの包装機や包装資材の納入を開始した。医療器具や衛生材料の包装は、食品以上に厳密な管理が求められる。医療業界からの発注が得られていることは、当社が扱っている包装機や包装資材が高い評価を受けていることの証左と言える。
また高い要求水準をクリアすることが求められる医療業界への納入に関わっていることは、当社にとって技術的な知見を高める上での貴重な機会となっている。そこで得られた知見やノウハウは、当然食品業界の顧客に対して、様々なソリューションを提案する際にも生かされているのだ。
これらのように、食品加工機械や包装機、包装資材の納入先や使用用途が広がる中で、70年代末から80年代にかけても、業績は順調に推移。そこで当社は、積極的な事業拡大を図っていった。
83年には、仙台営業所を仙台支店に昇格。84年には自社ビルとして仙台支店ビル(nasco -Ⅰビル)を完成させた。さらに89年には同じ仙台に、製品を展示するショールームの役割を担った仙台支店ビル(nasco-Ⅱビル)を建設。また東京では、86年に中央区築地に東京支店を開設した。築地を選んだのは、このエリアに大切な顧客である、水産加工会社が集中していたことが背景にあった。
そして90年には松戸支店のセンタービルを全面改築し、翌91年には倉庫や機械の組立工場、パーツセンター、トレーニングセンターを稼働させ始めた。また同年、仙台支店に機械の組立工場、パーツセンターを併設した。
しかし前途洋々と思われていた当社の未来に、やがて暗雲が立ちこめることになる。90年代頭のバブル経済崩壊の影響が、当社の経営にじわりとのしかかってくるようになったからだ。
昭和から平成へと改元された89年、12月29日に行われた大納会において、東京証券取引所の平均株価が史上最高値の3万8,915円(終値)を記録した。多くの人たちは、この好景気がまだしばらく続くと信じていたが、このときが頂点だった。
90年3月、日本銀行は公定歩合の引き上げを89年から引き続き行い、大蔵省(現・財務省)は地価高騰対策として、不動産融資の総量規制を通達し翌月に実施。同年10月には、東京証券取引所の平均株価が2万円を割り、その後、不動産価格も下落に転じるなど、バブル経済は崩壊していった。
不動産価格の下落などにともない、それまで積極的な不動産融資をしていた金融機関が不良債権を抱えるようになると、取引先への貸し渋りや貸し剥がしが行われるようになった。このうち貸し剥がしとは、融資先企業に対して、融資した資金の期限前返済や追加担保を迫るものである。
これらの影響を当社も受け、財務面での悪化に直面。完成して間もない2つの仙台支店のビルを手放し、賃貸に切り換えるという決断をせざるを得なくなった。仙台支店を仙台市青葉区本町から仙台市若林区伊在字白山前に移転。同様に大阪支店も、大阪市北区梅田にあった自社ビルを売却。大阪市北区大淀中の賃貸ビルに移転した。また中央区築地にあった東京支店については閉鎖した。
そして2000年には、中央区日本橋室町にあった本社を、千葉県松戸市松戸にある松戸センタービルに移転した。以後この地が、現在に至るまで当社の本社となっている。
こうした相次ぐ本社・支店ビルの売却・移転は、財務面での対策という理由以外に、本社機能や支店機能の実効性を高める狙いもあった。当社が扱っている機械や資材は、主に食品・水産加工関連会社の工場に納入されることになる。これらの工場の多くは大都市圏の郊外や地方にあるため、実は当社が都心にオフィスビルを構える実利はさほど大きくはなかった。それでもまだ当社の知名度が低かった設立当時は、都心の一等地に本社や支店を置くことは、ブランド力の向上につながるというメリットがあった。しかし90年代頭の段階には、既に業界における認知度は十分に得られていたため、言わば「名を捨てて実を取る」ことを選択。以降、事業所は製品輸送の利便性が高い、高速道路のインターチェンジ近くや空港近くに構えるようになった。
バブル崩壊の影響は、顧客である食品業界にも当然及んだ。食品会社は以前と比べると、新たな設備投資に対して慎重になっていた。しかし、「食」は人々の日常生活に欠かせないものであるため、他業界と比べればその影響はまだ軽微と言えたかもしれない。事実、当社の食品業界との取引額自体は、バブル崩壊後も大きな変化はなかった。
また90年代は、食の世界において「中食市場」が拡大していった時代でもあった。背景にはこの時期に、女性の社会進出や単独世帯の増加が進んだことがある。調理にかける時間などを減らすため、弁当店やデパ地下などで調理済みの食品を購入し、自宅に持ち帰って食べるという中食文化が、日本人の生活に浸透していった。
中食市場の拡大により、持ち帰り弁当のチェーン店の中には、セントラルキッチンの充実を図る企業があった。こうした企業が新たな顧客に加わったことは、バブル崩壊後でも、当社が一定の売上を維持することができた要因の1つとなった。
このように当社にとっては、バブル崩壊による景気後退そのものよりも、財務面での悪化のほうが、はるかに深刻な問題だった。90年代を通して、この問題への対処に奔走することになった。
バブル崩壊後の日本は、後に「失われた20年」と呼ばれることになる、長期にわたる経済低迷が続いた。食品業界も例外ではなく、生産現場のコストカットが求められるようになっていた。
生産現場においては、導入した機械をいかに最適な形に組み合わせて、生産工程の効率化を図っていくかが重要になる。これまで多くの食品会社では、そのための専門の担当者を配置していたが、コスト削減の動きの中で、次第にその役割を、機械を納入した商社などにアウトソーシングする傾向が強くなってきた。そこで2004年、顧客に対して最適な生産ラインの設計・改善を提案する部署として、システムエンジニアリング部を開設した。
これにより長らく食品加工機械、包装機、包装資材を3本柱としてきた当社の事業に、システムエンジニアリングという新たな事業が加わった。ちなみに現在の当社の売上比率は、食品加工機械が約25%、包装機が約25%、包装資材が約40%、システムエンジニアリング及びアフターサービスが約10%となっている。
そして当社は、06年頃から、バブル崩壊による財務面の改善を第一に置いた「守りの経営」から、積極的に売上の拡大を目指していく、「攻めの経営」へと転じるようになる。不動産処理に関してある程度目途が立ち、借入金と売上のバランスや、今後の成長を考慮した場合に、このタイミングで、売上拡大に向けた経営戦略へと舵を切ることが最適だと考えたのだ。
06年、当社は魚肉・食肉加工機械分野で世界トップクラスの、アイスランドのマレル社と取り引きを開始した。以後当社は、ポーションカッターやグレーダー、バッチャー、X線小骨検出機など、多岐にわたるマレル社の製品を扱うようになった。中でも食品加工会社やセントラルキッチンからのニーズが高かったのが、大量の肉などを正確な分量で小分けしていくことが可能なポーションカッターだった。マレル社との提携に成功したことは、売上拡大に大いにプラスとなった。
また06年には、業務用洗浄剤の製造・販売を手掛けている、日本のライオンハイジーン株式会社との取り引きを、07年には、機械部品の洗浄機の製造・販売を行っている、アメリカのサニマチック社との取り引きを開始した。この時期、食品業界の衛生管理に関する社会的関心が高まっており、その点当社であれば、納入した機械の特性を踏まえた上で、衛生管理のための適切な洗浄機や洗浄剤の提案を顧客に行うことが可能だ。そこでこの2社と提携することで、衛生管理に関するアフターサービスの充実を図ることにしたのである。
さらにこの頃、ガス混合器や分析計などを製造しているドイツのウィット社、パレットコンテナの製造会社であるアイスランドのボルガプラスト社、グリル機器の製造を手掛けるスウェーデンのフォームクック社とも取り引きを開始していった。
当社は、これらのように取扱機械の品目やサービスの種類を増やした上で、さらなる顧客開拓のために新たなアプローチを試みることにした。
当社の主要顧客は食品加工会社を中心としたメーカーであり、従来は営業活動もメーカーに対して行っていた。だがこの頃からメーカーに加えて、大手総合スーパー(GMS)にも営業アプローチをかけ始めたのである。GMSは、競合との差別化を図るために、プライベートブランド(PB商品)の充実に力を注いでいた。そこで当社からGMSに対して、PB商品を提案。一方でGMSとの取り引きを希望している食品加工会社に対して、「当社の機械を導入すれば、このGMSのPB商品の生産が可能となり、取り引きができるようになる」といった形で機械の導入を働きかけるという、新たな営業体系をつくっていった。
こうした積極経営により、バブル崩壊以降横ばいが続いていた売上は、再び成長曲線を描くようになった。当社はようやくバブル崩壊の後遺症から脱することができた。
しかし07年1月、当社の創業者であり、長年経営の舵を取ってきた中村達彦が死去。これまで社長とともに先陣を切り経営を行ってきた、取締役副社長の中村剛太郎が代表取締役社長に就任し、財政面悪化の回復に尽力した、常務取締役の中村秀宗が専務取締役に就任。さらなる成長に向け前進すべく、経営の舵を取っていくことになった。
売上拡大に向けた経営戦略を推し進める中、11年3月11日、マグニチュード9.0の東日本大震災が発生。当社の大切な顧客であり、同地に工場を構え被災する中、顧客の工場を一軒一軒訪問し、機械の修理を行っていった。
実はこの頃、当社自身が経営の岐路に立っている時期でもあった。長年、包装機を購入してきたドイツのムルチバック社との契約を解除し、同じくドイツのシールパック社と取り引きを開始するための準備を進めていたからだ。当時ムルチバック社は、世界各国の代理店の買収を進めていたが、その方針は、完全独立を志向する当社の姿勢とは合わないものだった。とはいえ、包装機分野の最大手であるムルチバック社との契約を終了させることは、大きな挑戦だった。
そのような中、当社からシールパック社の包装機を最初に購入していただいたのが、津波によって被害を受け、機械を買い換える必要が生じた大手水産加工会社だった。同社への納入が弾みとなり、シールパック社の製品は、当初から順調な売上を確保することができた。
以降、食品加工機械においてはマレル社製品が、包装機においてはシールパック社製品が当社の主力取扱製品となった。ただしこの2社ではカバーできない機械や技術もあったため、食品加工機械ではドイツのレオンハード社やKGヴェッター社、マヤ社、オーストリアのレックス社、包装機や包装技術関連では、オーストリアのスーパーバック社やオランダのナーバー社、日本のエア・リキード工業ガス株式会社などとも次々に取り引きを開始した。
また11年には、日本の包装機業界のリーディングカンパニーである、大森機械工業株式会社とのアライアンスも実現した。当社はこれまで、海外企業から最先端の機械を輸入し顧客に納入してきたが、大森機械工業との提携が成立したことで、国内製であるか海外製であるかを問わず、顧客のニーズにマッチする優れた機械を提案できるようになった。
10年代に入ると、日本社会の生産年齢人口(15~64歳)の減少が進む中、多くの企業は、生産現場のさらなる効率化や省人化に取り組むようになっていった。
そこで13年に、NECファシリティーズ株式会社との間でアライアンスを締結。NECファシリティーズは建物や設備構築において、当社は食品工場におけるシステムエンジニアリングのプロフェッショナルである。この両社が組むことで、食品会社が工場を新設・増設する際に、生産工程の効率化に資する最適な施設・設備・生産ラインの提案を、ワンストップで行うことを目指したものだった。
さらに14年からは、セイコーインスツル株式会社ともアライアンスを組んでいる。これは、セイコーインスツルが腕時計製造で培った組み立てなどの自動化の技術と、食品機械における当社の知見を掛け合わせることで、食品工場の自動化を推し進めていくための技術を開発しようとするものである。
一方、10年代半ばからコンビニエンスストア(コンビニ)に対しても新たなアプローチを開始した。
消費者の中食志向は10年代に入ってからも拡大の一途をたどっており、調理済みの惣菜類などはコンビニにおいても主力商品となっている。そこで当社が大手コンビニ会社に提案したのが、MAP包装で惣菜を販売することだった。MAP包装とは、パッケージの中の空気を二酸化炭素や窒素といった、食品の保存に適したガスに置換した上で包装する方法のことである。鮮度が長持ちするため、フードロスの改善にも貢献できる。また消費者にとっては、スタンディングパウチによる包装と違い、容器のまま電子レンジで温め、シールを剥がせばすぐに食べられるというメリットがある。当社の提案を受けて、大手コンビニ会社では、まずチルド惣菜をMAP包装することから始め、調理済みの肉や魚、おかず、冷凍食品へと徐々に品目を増やしていった。
しかし、MAP包装の用途は惣菜に限られているわけではなく、魚、肉、野菜の生鮮3品や花卉類にも用いることが可能だ。野菜や花卉の場合、呼吸量を低く抑えながら、呼吸速度に合わせてパッケージの中の酸素の量を調整することが、鮮度を長持ちさせるためのカギとなる。
そこで当社は、17年に、青果物の呼吸速度の測定機器や呼吸制御システムを開発している、オランダのパーフォテック社と取り引きを開始した。今後生鮮3品や花卉類にMAP包装を用いることが国内でも一般化すれば、当社はさらなる事業の拡大のチャンスを得ることになる。
06年時点では約20億円だった当社の売上は、現在では約55億円に達している。また社員数も約30名から約60名へと倍増した。こうした中で当社は、10年代に入ってから、再び事業所の拡充を図ってきた。13年には大阪支店を豊中市蛍池西町に移転。14年には大分県国東市に九州(大分)営業所を開設し、17年には仙台支店を仙台市若林区伊在に移転した。このうち仙台支店については、当社が扱っている製品を展示するショールームを併設している。また18年には福岡市博多区吉塚に福岡支店、岩手県盛岡市大沢川原に盛岡営業所を開設した。
一方、会社の規模が拡大する中で、16年にはコーポレートガバナンスの強化を目的に、執行役員制度を導入した。
そして20年2月の設立60周年を機に、中村産業株式会社からNASCO株式会社へと社名変更する予定である。既に海外の取引先には、当社の名称はNASCOで浸透している。また今後は営業活動を国内にとどめることなく、中国や東南アジア市場への進出も視野に入れている。事業の国際化をも見据えた上で、次の時代に向けて新たな一歩を踏み出すために、社名を刷新することにした。
これまで当社は、時代の変化を先取りした新たな提案を行っていくことで、顧客から高い信頼を勝ち得てきた。今後も「企業理念」に掲げている「前進」、「経営理念」に掲げている「新しい波 新しい風 新しいアイディアをもって前進する」という姿勢を大切にしつつ、さらなる飛躍を遂げていきたいと考えている。